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1957

日本に国際会議場を

日本に国際会議場をつくろうという構想は、第二次世界大戦後の間もない時期から話題にのぼっていた。しかし、それが現実に向かって具体的になり始めたのは、1956年(昭和32年)のことである。

当時の日本は、敗戦の痛手から立ち直り、国際社会への復帰にも大いに意欲を燃やしていた。外交面での動きも活発になりはじめ、東京へのオリンピック誘致運動を展開したIOC総会やその他、重要な国際会議が続き、日本からも海外へ出かける機会が増え始めた。
国家の要人が頻繁に海外へ出かけ、国際会議の席上で発言する。それは確かに国際社会進出の第一歩といえよう。
その当時、海外へ出向いた数多くの閣僚のなかでも、いち早くこれに気づき、国際会議場建設具体化への道を開いたのは、当時の岸信介内閣・国務大臣(経済企画庁長官)・河野一郎氏であった。河野氏は、以後、終始国立国際会館の京都設置に大きな役割を果たしていくことになる。

1957年(昭和32年)、河野一郎氏は政府代表としてガット総会に出席するため、スイスのジュネーブにあるパレ・デ・ナシオンを訪れた。パレ・デ・ナシオンは、ニューヨークの国際連合本部と並ぶ、世界の二大会議場の一つである。
この最大級の世界の話し合いの場を目の前にして、国際会議場建設の構想がスタートした。
河野氏は、帰国後直ちに、国際会議場設置の必要性を当時の内閣総理大臣である岸信介首相に進言した。

一方、当時の京都市長であった高山義三氏は、京都の国際文化観光都市化に意欲を燃やしており、これを契機に国際会議場の京都誘致に向けて精力的に働きかけることとなる。

1957年(昭和32年)11月8日、閣議において岸首相は「京都市またはその周辺に国際会議場をつくりたい」と発言した。ここから、国立国際会館の建設は具体化しはじめた。

この閣議において、①主要な国際会議を積極的に招致する②今後日本での主要な国際会議は、東京と並んで京都を中心とする③ニューヨークの国連ビル、ジュネーブのパレ・デ・ナシオンなどに匹敵するような会議場をつくり、国際会議と観光の2つの目的をかねた施設とする などの方針が決定され、1958年(昭和33年)度予算に、国立国際会議場建設調査費500万円を計上することも了承された。

1959

建設地が京都市宝ヶ池に決定

1959年(昭和34年)7月、当時の益谷副総理、大野自民党副総裁は、現地視察を行い、同年8月には、村上勇建設大臣による京都市宝ヶ池、大津市皇子山の視察が行われた。
そして9月15日、閣議において建設場所は、宝ヶ池と決定された。

京都は国際会議に集まる世界各国の人々に、日本が誇る歴史と文化を示し得る最適の地であり、古い寺社仏閣や、伝統工芸をはじめとする観光資源の豊富さと、比叡山を借景にした洛北・宝ヶ池の地が、自然の中に典雅な美しさを秘めた表情豊かな景観であることが京都選定の決め手となった。また、終始一貫した関係者の誘致努力も忘れてはならない。

1962

公開設計コンペティション

国立京都国際会館の設計には、一般からの公募による、公開設計コンペティション(公開設計競技方式)が採用された。
公共建築物の設計を公開競技方式で行うやり方は、海外ではかなり以前からなされており、建築界の前進に大きな貢献をしていたが、当時の日本では盛んではなかった。
しかし、今回の設計競技においては、「基本設計および実施設計ならびに設計者の意図を実現するに必要な監理の一部を、最優秀作品の設計者に委嘱する」という、日本初の本格的な設計競技方式が採用された。

※1999年4月10日刊 『国立京都国際会館の建築』より
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1963

設計者 大谷幸夫氏に決定

応募作品総数195点、15回にもおよぶ審査会の結果、最優秀作品設計者は、当時新進気鋭の若手建築家として注目を浴びていた大谷幸夫氏に決定。
大谷氏は、1946年(昭和21年)、東京大学第一工学部建築学科卒業後、同大学院に進み丹下健三氏に師事。東京大学工学部建築学科講師を経て、1961年(昭和36年)、大谷設計連合事務所を創設。旧東京都庁舎などの設計で知られていた。

大谷氏の作品は、日本古来の建築様式を生かして、空間構成に順逆台形をたくみに取り入れたもので、しかもその組み合わせには、すばらしい統一が図られており、日本建築の伝統美を生かした上にも、国際会議場にふさわしい平面構成、立体構成を持つものであった。

配置構成の面でも宝ヶ池の風致をそこなうことのないアプローチの設定や、駐車場配置、庭園の設えもたくみで、宝ヶ池一体のすぐれた環境とよく調和するものであり、将来に予想される増築の計画に対しても、現状を著しく変更する必要のないように、熟慮されたものであった。

設計者 大谷幸夫氏略歴

1924年 2月20日 東京都生まれ
1946年 東京大学第一工学部建築学科卒 大学院特別研究生(旧丹下建三研究室)
1951年 東京大学工学部大学院満期退学、引き続き丹下教授の下で研修
広島平和記念公園及び記念館、旧東京都庁舎等の計画・設計・監修に参加
1960年 丹下研究室を辞す。自宅にて麹町計画を立案
1961年 設計連合を設立、建築設計に従事
1964年 東京大学工学部都市工学科助教授に就任(都市設計論、都市設計演習)
1967年 大谷研究室発足
1971年 東京大学工学部都市工学科教授に就任
1973年-87年 東北大学工学部講師兼任(建築計画論)
1982年-87年 神戸大学大学院自然科学研究科講師兼任(都市設計論)
1983年-84年 千葉大学工学部建築学科教授兼任(居住学・居住学特論)
1984年 東京大学を定年退官し千葉大学に移る。東京大学名誉教授
1989年 千葉大学を定年退官。株式会社大谷研究室代表、設計活動にあたる。
2013年 1月2日 逝去

1964

着工から完成まで

公開設計競技及び建設工事に先立ち、1962年(昭和37年)11月19日、現地宝ヶ池にて起工式が執り行われ、整地工事が開始された。起工式には、当時の河野一郎建設大臣以下、大野伴睦自民党副総裁、蜷川虎三京都府知事、高山義三京都市長をはじめ、地元の協力者や、関係者らを含め500余人が出席した。
敷地の整地が完了、公開競技により国立京都国際会館の設計も決定され、1964年(昭和39年)1月24日、地盤の杭打ち工事が開始された。

当館の建設には、鉄骨だけで約3600トンを要するため、杭打ち工事では、鉄骨組みの基礎として直径30センチ、長さ12メートルのコンクリート杭2400本が打ち込まれたが、もともと会館用地は地盤が柔らかく、その上建造物の構造自体が複雑であったため、この工事は予想以上の難工事となった。

杭打ち工事は3月30日に終了し、4月1日、建築主体(ビル本体)工事が開始された。当館の建築設計では、柱という柱がすべて67.5度に傾いているため、柱が真っすぐかどうか一目でわかる熟練の工事担当者も、鉄骨の組み方が適正かどうかを確認するためには、逐一測定しなくてはならなかった。

鉄骨組みがほぼ終了した1964年(昭和39年)11月、電気、通信、衛生、空調、進入路などの付帯設備の工事が開始された。

鉄骨組みは1964年(昭和39年)11月30日に終了し、その後、建築主体のコンクリート打ちが行われた。つづいて、昇降機工事、電話設備工事、受変電設備工事、同時通訳設備工事がそれぞれ開始された。建築主体コンクリート打ち工事は、1965年(昭和40年)3月30日をもって終了。
これで建物本体が完成した。

通常、ビルのコンクリート打ちは、各階ごとに足場をつくればよいのであるが、当館の場合は、各階の部屋の床の高さが全部違うため、コンクリートを打つのに、同じ階でも会議室ごとに足場をつくらなければならなかった。そのため、同規模のビルのコンクリート打ちに比べ、3倍から4倍の労力と時間を要したといわれる。
また、このコンクリート打ちは、天候面でも困難をともなうものであった。山と山に囲まれた宝ヶ池の冬は、京都市内よりも平均気温が1~2℃低く、最低気温がマイナス4~5℃になることもしばしばあったし、昼間でもコンクリートを固めるのに致命的な、氷点下になることがあったからである。

その後、内装、外装、造園、駐車場建設などの仕上げ工事が施され、1966年(昭和41年)3月20日、2年2ヵ月におよぶ建設工事の末、国立京都国際会館は、晴れて完成の運びとなった。

1966

管理運営財団の設立

国立京都国際会館の建設工事が進み、当館に対する期待や関心が高まっていたが、当館完成後の管理運営については、当初、方針が決まっていなかった。
1965年(昭和40年)10月23日、「京都市議会国立国際会館対策委員会」において、「国立国際会館対策本部」は、管理運営財団設立に関する具体案の報告を行い、当館の管理運営は、国からまず京都市に委託され、さらに京都市から財団に委託されるという形がとられた。

翌年1966年(昭和41年)1月31日に認可がおり、「財団法人国立京都国際会館」は正式に発足した。

同年2月15日には、任期満了で京都市長を辞任した高山義三氏が館長に就任し、当館の開館に向けて万全の体制が整えられた。

1966

開館

1966年(昭和41年)5月21日、国立京都国際会館は開館した。

開館式に先立ち、当館1階正面ラウンジにおいて、建設、大蔵両省主催による、当館建設工事の竣工式が行われた。

竣工式には、川島正次郎自民党副総裁(首相代理)、瀬戸山三男建設大臣、藤井勝志大蔵政務次官(蔵相代理)、井上清一京都市長、松下幸之助理事長、高山義三館長、設計者大谷幸夫氏ら約300人が出席した。

引き続き、当館メインホール(大会議場)において、京都市と財団法人国立京都国際会館の主催により、開館式が開催された。

【建築概要】
建築延面積:2万7,055㎡(鉄骨コンクリート造/一部鉄筋コンクリート造地上6階・地下1階・塔屋2階)
総面積:15万7,100㎡
総工費:39億6,000万円(用地費・調度品を含む)

1966

国際会議場としてのこけら落とし
「第5回日米貿易経済合同委員会」開催

国際会議場のこけら落としとして、1966年(昭和41年)7月5日から7月7日までの3日間にわたり、「第5回日米貿易経済合同委員会」が開催された。この会議は日米両政府の中枢が参集した大変重要なものであり、会議の様子は、海外の数多くの通信社で取り上げられ、大成功のうちに閉会することができた。
これを皮切りに、国立京都国際会館では、政府間会議や国連などの国際会議、学会が数多く開催されていく。

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1967

茶室「宝松庵」完成

1967年(昭和42年)11月11日、松下電器産業、松下電子工業、松下電工、松下精工、中川電機以上5社(注:当時の会社名を記載)の寄付を元に、総工費2400万円をかけて、茶室が完成した。

茶室は、おもに国際会議の参加者を日本的雰囲気でもてなす迎賓館として建設されたもので、宝ヶ池の美しさと池を囲む松の緑にちなみ、松下幸之助理事長により「宝松庵」と命名された。

「宝松庵」は、敷地面積約830平方メートル、桧皮(ひわだ)ぶき木造平屋建て数寄屋造りで、柱は北山丸太、天井は赤杉木目の網代張りに、造りつけの畳敷きの腰掛けや、外国人をもてなすための立札席が設けられ、簡素なうちにも気品のある、落ち着いたたたずまいをもつ茶室である。
茶庭は、周囲の山々や宝が池を借景として取り入れたもので、国際会議のパーティーにも用いられるように、池に面して野点用の芝生地もつくられた。

1968

AIPCに加盟

1968年(昭和43年)、国立京都国際会館は、日本の国際会議場として、AIPC「The International Association of Convention Centres(国際会議場協会)」に加盟した。

AIPCは世界の国際会議場が加盟する団体で、国際会議場のマネジメントを遂行するために必要な相互の情報交換、教育や調査研究を行う目的で、1958年(昭和33年)に設立された。現在、本部はベルギーのブリュッセルにあり、57ヶ国、約175の国際会議場がメンバーとなっている。

尚、現在日本で唯一、当館が加盟している。

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1973

プレスセンター完成

1973年(昭和48年)1月8日、総工費11億5000万円と約2年の歳月を費やし、待望のプレスセンターが完成した。

数年来、急速に報道の高度な機械化が進んでおり、これからはプレスの活動センター、通信施設の充実が、国際会議の成功の必須条件といわれるようになっていた。

国立京都国際会館は開館以来6年余、政治、経済、学術、文化など、あらゆる分野で国際間の交流の場として利用されてきたが、なおいっそう国際会議場としての充実をはかるには、報道の機械化に対応する機能と設備を整える必要があった。また、議事の内容、会議の雰囲気が広く伝達され、これに共感してこそ、国際会議の意図するものが実現される。そういった意味でプレスセンターの完成は、会館の今後にとって大いに意義のあるものであった。

プレスセンターは本館と同様、大谷幸夫氏の設計によるもので、地上4階、地下1階、建築延面積7600平方メートルで、6ヵ国語同時通訳設備、ラジオ、テレビの中継用ブースなどを完備した共同記者会見室や、プレス合同事務室、報道用各社個室18室に大宴会場を含むものであり、報道用個室など各室は会議場としても使用できる。

1978

ICCAに加盟

1978年(昭和53年)、国立京都国際会館は、日本を代表する国際会議場として、ICCA(lnternational Congress and Convention Association(国際会議協会))に加盟した。
ICCAは、1963年(昭和38年)10月、オランダのアムステルダムに設立された国際会議やコンベンション関係者の世界的団体で、現在90ヶ国、約1000団体が加盟している。
国立京都国際会館は、加盟以来、海外の仲間との交流や、国際会議の情報の交換を積極的に行って会議の誘致に努力しており、また、総会時に同時開催される分科会においては、会議場の経営問題、人材の育成、会議情報の早期収集など、具体的なテーマの議論に意欲的に参加している。

1985

イベントホール完成

国立京都国際会館が完成した1966年(昭和41年)前後は、ちょうど日本の経済や学術、文化の地位が、国際的にも大きく伸びた時期であった。その意味で当館の誕生は、まさにタイミングがよかった。

しかしその後、社会は急速に変化し、当館としてもその変化に対応する必要が生じてきた。
特に国際会議・国内会議などでは、年々、大型化、専門化が目立つようになり、それにともないその形態も、口頭やスライド、映画を使った平面的なものから、展示を重視し、報告、発表に立体感をもたせるものへと変りゆく傾向にあった。その結果、主催者の要請に十分応じられない場合も出てきた。そこで当館としては、こういった時代の要請に対応するため、1978年(昭和53年)ごろから、展示場、宿泊施設を含めた、イべントホールの増築を国に要望し、数次にわたる要求の結果、それが認められ、1982年(昭和57年)末、岩倉川を挟んで当館敷地内の大駐車場の一部を建設地として、イベントホール建設に着工、1985年(昭和60年)4月2日に竣工式が行われた。

イベントホールは本館、プレスセンター同様、大谷幸夫氏の設計によるもので、地上3階、地下1階、建築延面積8600平方メートル、総工費約30億円で、建設工事は開館以来最大の事業となった。また、イベントホール東側には、宿泊施設(ロッジ)を併設した。

1986

ホテルの建設

国立京都国際会館は、京都にとって、日本文化の中心地から国際文化都市へと飛躍する出発点となった。また政府にとっても、京都を舞台に、日本の国際化を促す場を提供するという意義があった。開館当時、国際会議は日本にとってまだ馴染みのうすいものであったが、その後、日本の国際的立場の上昇を反映して、次第に国際会議の開催件数、参加人数は増加してきた。
そのような背景の中、1986年(昭和61年)5月に日本で開催される予定の、「第12回先進国首脳会議(サミット)」を京都に誘致しようという要望が起こり、ホテルの建設に拍車がかかった。

サミット自体は京都で開催されることはなかったが、以前からのホテル建設の要望の高まりは年々増加し、ついに、1984年(昭和59年)4月に京都市議会において建設が可決され、1986年(昭和61年)に「京都宝ヶ池プリンスホテル(現グランドプリンスホテル京都)」が建設された。

1997

地下鉄の延伸

1966年(昭和41年)の開館以来、国立京都国際会館へのアクセスの改善は最大の課題であった。 1981年(昭和56年)、京都駅―北大路間に開業した京都市営地下鉄(烏丸線)に関して、当館までの延伸を要望してきた結果、1992年(平成4年)、運輸省(現在の国土交通省)によって、国際会館駅までの延伸計画が承認された。

同計画は、1993年(平成5年)6月に着工となり、1997年(平成9年)6月3日に「国際会館」駅が開業する。京都市内から当館までのアクセスが飛躍的に向上し、京都駅から国際会館駅までの所要時間は20分と大幅に短縮された。

引きつづき同年11月19日には、同駅コンコースから当館までの専用地下通路が、国および京都市の協力を得て完成した。その直後の同年12月1日より、「地球温暖化防止京都会議(COP3)」が開催され、世界中からの参加者に良好なアクセスが提供できたと同時に、当館をとりまく施設の充実をアピールする機会となった。

1998

アネックスホール完成

1995年(平成7年)1月に発生した阪神淡路大震災を機に、国立京都国際会館では、同年11月より耐震改修工事を実施した。(1999年(平成11年)3月末日完了)
これに伴い、改修対象となった部分の代替施設としてアネックスホールの設置が決定され、1997年(平成9年)4月に着工された。

アネックスホールは、1998年(平成10年)3月31日に完成し、4月から恒久施設としての使用が開始された。同ホールは、会議施設として1500名の収容が可能であるが、可動間仕切りにより2分割しての使用が可能であるため、分科会場として、また、展示会場、レセプション会場として幅広く活用されている。

2001

アクセスの整備(地下鉄~正面エントランス)

地下鉄「国際会館」駅が開業し、専用地下通路が設置されたことに続いて、2001年(平成13年)2月には、地下通路出入口より会館の正面玄関までの間に、屋根付きの歩廊設置工事が開始され、同年8月に完成した。これにより、地下鉄「国際会館」駅から正面エントランスまで、降水時であっても傘なしの移動が可能となった。

また、専用道路(正面ロータリー)を拡幅し、VIP車、タクシーの乗り入れや大型バスの発着に備えた。

さらに、2006年(平成18年)4月には、宝ヶ池通りの急勾配のヘアピンカーブ(通称狐坂)に代わる高架橋が新設され、専用道路の改修工事も完了し、アクセスも一段と整備された。

2003

環境への配慮(コージェネレーション・中水設備設置)

国立京都国際会館では、電力を安定的に供給するため、開館当初から自家発電装置を設置しているが、この装置の更新に際しては、地球環境への配慮を念頭に、コージェネレーションシステムを採用した。ガスエンジンの冷却水から回収した高温水や蒸気を、冷暖房等の空調や給湯に利用することにより、環境負荷の低減および光熱費の節減を図るのみならず、燃料には天然ガスを使用して、二酸化炭素等の排出量を削減している。

また近年、水の重要性がますます強く認識されるようになったことを受けて、2003年(平成15年)3月、節水型の水循環供給システムを導入した。通常は、館内で使用している上水を循環させて中水として再利用し、災害時には主庭園にある「幸が池」の水を、トイレ洗浄水として利用するなど、主に中水の供給方法を見直すことで上水の使用量を削減するものである。

2003

メディアセンター設置

2003年(平成15年)3月、本館4階にメディアセンターを設置した。会議に必要な音響、同時通訳、映像設備のすべてをフルデジタル化およびハイビジョン化し、それらのシステムを一元管理する施設で、メディアセンターを中軸に各会議場に敷設された光ファイバー網は600本に及び、高速で安定した情報通信の要となっている。音声や映像はフルデジタルで構築され、ハイビジョンカメラによる画像は劣化することなく鮮明に伝送される。放送局に準拠した高品位なシステムで構成され、収録、編集、リモート、ライブ中継、オンデマンドによる配信やインターネット放映など、多様化する会議のニーズに自在な対応が可能となった。

2011

公益財団法人に移行

国の公益法人制度改革に伴う新公益財団法人への移行については、円滑な認定申請に向け、3ヶ月計画を立て取り組んだ結果、2011年(平成23年)3月24日に内閣総理大臣より公益財団法人の認定を受けた。

これを受け、京都市を通じて国から国立京都国際会館の管理・運営を委託されている公益財団法人国立京都国際会館は、国立の国際会議場にふさわしい政府間会議や国際・国内会議の積極的な誘致及び主催者に満足していただける会議運営に鋭意努めている他、地域貢献や国際交流に繋がる自主企画事業を実施しているなど国の施設を預かる公益法人として公益事業の充実に積極的に取り組んでいる。

2013

デジタルサイネージ・太陽光発電装置 設置

来館されるお客様に対して、ウェルカムメッセージの発信や、催し案内、プログラムなどの情報を提供するためのツールとして幅広く活用するため、地下鉄「国際会館」駅地下連絡通路に、70インチのデジタルサイネージ2台、45インチ縦型デジタルサイネージ6台、32インチ4連デジタルサイネージを1台設置した。
また、このデジタルサイネージ設備の電源には、環境にやさしい太陽光で発電した電力が供給されている。

2015

耐震改修工事「メインホール(大会議場)等改修」

2011年(平成23年)2月24日より開始された耐震改修工事は、4年の歳月を掛けて2015年(平成27年)3月に完了した。開館以来、これまでも順次改修、補修を行っていたが、今回の大規模改修工事の完了で全館内の耐震補強は終了した。
特に、メインホール(大会議場)では照明設備、調光設備、スクリーン設備が耐震仕様となり、会議場として、安心・安全・快適な空間が確保された。
さらに、この工事を機に照明設備のLED化や建物の外壁・内装部分が更新され、当館のリニューアルに繋がるものとなった。

2016

ニューホール建設開始

近年、国際会議の大型化・多様化が進み、国立京都国際会館では、既存施設が手狭になるなか、他施設との連携や仮設テントの設置等により柔軟な対応をし、実績を重ねてきた。
しかし、半世紀という時代の流れの中で、MICEの動向等当館を取り巻く環境もすさまじいスピードで変化を続けており、海外に目を向けると、アメリカやヨーロッパ諸国はもちろん、アジア諸国でも、既にコンベンションセンターの大型化が顕著に表れている。
この様な状況下、当館は、国際競争力強化のための施設の更なる充実が、国際会議の誘致に必要であると考え、ニューホールを待望するようになった。
これを踏まえ、国に増築の要望をはたらき続けた結果、2018年(平成30年)度には2,500人規模の多目的に利用できる展示場が竣工する運びとなり、建築に必要な申請手続きや業者選定などを完了し、建設工事が進められているところである。